「生命」の正体は何か。「生きている」とは、どういうことか。【前編】でご紹介した藤原慶准教授(理工学部)による「合成生物学」の視点は、生命をシステムとしてとらえ、部品から組み上げることでその境界を問うものでした。【後編】は、システムデザイン・マネジメント研究科(SDM)で、全く異なるアプローチから「生命」の本質に迫る新妻雅弘准教授です。探究の場は、私たちの「身体」そのもの。数学、音楽、AI、身体論……文系・理系の枠を超えて新妻准教授が見つめるのは、「凝集」の概念です。物質を生命に変える「内側からの力」とは? 科学と哲学が交差する、もう一つの生命論をお届けします。
プロフィール
新妻 雅弘(にいつま・まさひろ)
教員・研究者/慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 准教授2007年、慶應義塾大学理工学部情報工学科卒。同年「未踏ソフトウェア創造事業 未踏ユース 準スーパークリエータ」に認定。2009年、同大学大学院理工学研究科開放環境科学専攻前期博士課程修了。2013年、英国クイーンズ大学大学院後期博士課程(Ph.D.)修了。2014年、立命館大学情報理工学部メディア情報学科助教。2020年、青森大学ソフトウェア情報学部専任講師。2021年、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(SDM)専任講師。2023年から現職。
プロフィール
新妻 雅弘(にいつま・まさひろ)
教員・研究者/慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 准教授2007年、慶應義塾大学理工学部情報工学科卒。同年「未踏ソフトウェア創造事業 未踏ユース 準スーパークリエータ」に認定。2009年、同大学大学院理工学研究科開放環境科学専攻前期博士課程修了。2013年、英国クイーンズ大学大学院後期博士課程(Ph.D.)修了。2014年、立命館大学情報理工学部メディア情報学科助教。2020年、青森大学ソフトウェア情報学部専任講師。2021年、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(SDM)専任講師。2023年から現職。
■物質を生命に変える魔力
重要なキーワードの一つが、「凝集」だ。私たちの身体をバラバラにしても「生命」は見つけられない。そこで、それらをつなぎとめ突き動かしている力の源を「凝集する力」ととらえる。
たとえば「ミドリゾウリムシの死」。ミドリゾウリムシ(Paramecium bursaria)は、湖や沼に生息する体長約120 μmの単細胞繊毛虫だ。細胞内に数百個の緑藻クロレラを共生させ、死ぬと細胞が崩壊してクロレラが外にはき出される。
生きているミドリゾウリムシも、死後のミドリゾウリムシも、構成する原子や分子、たんぱく質の組成はほとんど同じだ。しかし、死を迎えた瞬間に「ミドリゾウリムシの営み」は失われ、「生命」ではなくなる。
「生きている間はひとまとまりの動きとしての生命があり、凝集が起きている。死ぬと生命をつなぎとめていた凝集がほどけて拡散していく。それはミドリゾウリムシも人間も変わりません」
「ミドリゾウリムシの死」が教えてくれるのは、「私たちが物質のかたまりであるというよりも、絶え間ない凝集と拡散の均衡として一時的に成立している過程にほかならない」という視点だ。
こうした「凝集」という視点は、音楽と生命の関係性を理解するうえでも重要だという。
「AIは過去のデータを統計的に処理し、形を近似させることに巧みになってきています。しかし音楽は『生命の脈動』の表れであることが本質。AIが音列を外面的にのみ再現しても、それはバッハとはいえないわけです」
「凝集」という概念は、この「生命の脈動」を単なる神秘として退けるのではなく、主観と客観、身体と心を架橋するものとしてとらえ直す契機となる。そしてそれは、生命そのものを学際的に問い直すための、新たな出発点となりうる。
■個性や性格を生むものは
凝集には「方向性」があり、それは私たちが「個性」や「性格」と呼ぶものと深く関わっている。この考えに至る契機となったのが、野口整体の創始者である野口晴哉が提唱した「体癖論」だった。
約10年前、大きな手術を経験した。そのとき、一つの平均化された基準を「健康」とし、そこから外れたものを「病」とみなす西洋医学の考え方に、強い疑問を抱いた。回復の過程で野口整体を学んだことが、発想の転換につながった。
「人間は、身体を均等に使っているわけではない。その偏り方は人によって異なる。疲れたときに椅子の背もたれに寄りかかる人もいれば、そうならない人もいる。このような無意識の動作の偏りは、その人固有の『凝集の方向性』を示していると考えられる」
すなわち、個性とは単なる心理的な属性ではなく、身体の使い方の偏りとして表れる「凝集のかたち」にほかならない。その方向性は、その人の振る舞いの随所に一貫して表れる。
それこそが、その人が「その人である」理由ではないか。
■筆跡鑑定で見えたAIの限界
分野にとらわれない姿勢を支えているのが、様々な分野の専門家との対話だという。たとえば、「一番の親友」という数学者の父との対話。
「父とはいまでも定期的に、特に行き詰まりを感じたときに対話します。その対話を通して、自分の考えや大学という組織における立ち位置が整理されていく。視界がひらけ、こだわりや感情が離れていき、雲の上から俯瞰(ふかん)しているような感覚が立ち上がってくるのです」
「実は数学こそ客観化できないところに本質がある。グロタンディークも言っているように、まず持続的な内的風景がある。『数式』というのはあくまでそれを表現するための言語の一つ。このような言語以前のイメージそのものが伝わってくるのが、対話なんだと思います」
紡ぐ言葉の一つひとつに、説法のような力がある。そんな「新妻ワールド」を支えているのは、文系・理系の枠を超えた「学際的」な視点だ。
グスタフ・レオンハルトの来日公演に触発され、大学時代には古楽器チェンバロを学んだ。また、武満徹の『エクリプス』に感銘を受け、尺八や薩摩琵琶にも取り組んだ。
一方、慶應義塾大学理工学部では、人工知能(AI)による自然言語処理などの研究に取り組んだ。プログラミングに強い関心を抱き、バロック時代の即興的演奏である通奏低音を、計算機によって再現する試みにも向き合った。
即興とは何か。生成とは何か。
この問いは、当時から一貫して、自分の関心の中心にあり続けている。
「子どもの頃から、特定の感覚に執着があり、それを追いかけて生きてきたような気がします。自分にとって研究はその感覚を理解したいからするものでした。それは、感覚と概念の往来でした」
本来「科学」と呼ばれるものも、先駆者の主観的な感覚や直観に端を発している。にもかかわらず現代では、その感覚が失われ、客観性だけが目的化している。
たとえば、大学院の博士課程で取り組んだAIによるヨハン・ゼバスティアン・バッハの筆跡鑑定。当時、バッハの筆跡をめぐっては、真筆か、それとも妻や弟子による写譜かという問題があり、その判別はごく少数の専門家の職人技に委ねられていた。
そこで、画像処理と機械学習の手法を用いて筆跡を解析し、84人の筆跡者の中から約87%という精度でバッハ本人のものを同定できることを確かめた。しかし、バッハ研究の専門家たちは、この「客観的」な数値だけをもって、それが信頼に足るとは考えない。彼らは多角的な根拠をもとに、「現実」のイメージを「総合」する。
では、「現実」とは何か? 「腑(ふ)に落ちる」とはどういうことなのか? ある筆跡をバッハのものだと確信するとはどういうことか?
この問いは、「凝集」の研究や、「生命とは何か」という問いへとつながっている。
■ハトを見て気づいた心と身体の「不調和」
心と身体の分断を再統合する視点ともいえる「凝集」は、現代の脳中枢優越社会からの脱却の道しるべといえるかもしれない。
AIの登場でますます効率性が求められるようになった社会の中で、人間は「頭」のみで考えた平均的な「正解」を優先する傾向を強めている。だが、人間は頭だけの生き物ではない。私たちにはそれぞれ固有の「身体」があり、頭もまた身体の一部にすぎない。そうした視点に立ち返り、社会のあり方そのものを問い直すことが、いま最も求められているのではないか。
こうした考えに深い示唆を与えた出来事がある。英国留学中のことだ。家の庭によく訪れる赤茶色のハトをチャボと名づけた。ところがある日、片方の脚しか使えなくなっていた。事故だろうか。それでも、チャボ自身が気にしているようには見えない。人間ならどうか。
「現代社会では意識ばかりが重視され、人間の動物としての側面が鈍感になっています。この不調和にまず気がつくこと。そうでなければ、どんなに理屈をこねくり回しても、いま存在する多くの社会問題は根本的には解決されない」
「意識(こころ)をば、心の仇(あだ)と心得て、意識(こころ)のなきを、心とはせよ」
構成:朝日新聞GLOBE+編集長 玉川透
取材・文:山本奈朱香
写真:品田裕美