「生命をゼロから創り出す」――。まるでSF映画やホラー小説のようなアイデアを、現実の世界で実現しようとしている気鋭の研究者が慶應義塾大学にいます。人工生命の研究で世界をリードする、理工学部生命情報学科の藤原慶准教授です。「生命とは何か」という人類古来の問いに対し、「合成生物学」の観点から答えを出そうとする藤原准教授の試みは、自然界の生物と分子構造が鏡写しに逆転している「鏡像生命」の研究にも及びます。アメリカや中国も注目する人工生命の研究は今どこまで進み、将来、私たちの社会をどう変えるのか。その先にある「生き物」と「モノ」の境目はどうなるのか。藤原准教授が思い描く未来を「科学と哲学が交差する生命論」の【前編】でお届けします。
プロフィール
藤原 慶(ふじわら・けい)
教員・研究者/慶應義塾大学 理工学部生命情報学科 准教授2006年3月に東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻修士課程修了。修士(農学)。2009年3月に東京大学大学院新領域創成科学研究科メディカルゲノム専攻博士後期課程修了、博士 (生命科学) 。日本学術振興会特別研究員(PD)、京都大学物質-細胞統合システム拠点(iCeMS) 特定研究員を経て、2014年4月に慶應義塾大学理工学部生命情報学科助教、2017年4月に専任講師。2022年4月から現職。趣味はピアノ、ソフトボール、バイオリン、ランニング。
プロフィール
藤原 慶(ふじわら・けい)
教員・研究者/慶應義塾大学 理工学部生命情報学科 准教授2006年3月に東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻修士課程修了。修士(農学)。2009年3月に東京大学大学院新領域創成科学研究科メディカルゲノム専攻博士後期課程修了、博士 (生命科学) 。日本学術振興会特別研究員(PD)、京都大学物質-細胞統合システム拠点(iCeMS) 特定研究員を経て、2014年4月に慶應義塾大学理工学部生命情報学科助教、2017年4月に専任講師。2022年4月から現職。趣味はピアノ、ソフトボール、バイオリン、ランニング。
■生命を「ボトムアップ」で理解する?
人工的に生命を創り出す科学者と聞けば、多くの人が思い浮かべるのは、小説や映画でおなじみの「フランケンシュタイン博士」だろう。
物語でフランケンシュタイン博士は死体から人造人間をつくり出したが、藤原准教授が研究室で取り組むのは、物質を組み上げて「細胞」を再現するという「創る生物学」のアプローチだ。
まず、素材となる大腸菌をすりつぶして細胞抽出液をつくる。いったん生命活動を終わらせ、バラバラの素材になったものに、生物の形質を決定するのに必要な「ゲノムDNA」を加えて、ゼロから生命を創り出すのだ。従来の生物学は、自然界にある完成された生命体を観察や解剖によって理解しようとする、いわば上からの学問。これに対し、藤原准教授の手法は、部品を一つずつ組み合わせ、生命現象を再現するボトムアップ型だ。
「ゲノムにはこれまで、遺伝など生命の情報が書かれていることはわかっていましたが、生命がどのようにつくられるかは詳しくわかっていませんでした。プラモデルでたとえると、部品リストはあるものの説明書がなく、最終的にできあがったものを見て『ここはこうなっているんじゃない?』と想像しているような状態です。創る生物学では、部品を一つひとつ確認して実際に組み立て、設計図に描き出していく。すると、観察だけではわからないことが見えてきます」
こうした研究過程で、教科書に書いてあることが実は違っていたり、何かが抜け落ちていたりすることに気づかせてくれる、と藤原准教授は言う。「たとえば、解糖系という代謝経路では、糖を食べてエネルギーができるとされていましたが、実際につくってみると、エネルギーの消費と組み合わさることで思ってもいなかった振る舞いをする、といったことがわかりました」
藤原准教授によると、「創る生物学」は生体内の化学反応を研究する「生化学」に近い考え方だ。
生化学という用語が初めて使われたのは1880年代といわれ、細胞を詳しく観察できるようになったことで、生物体とその働きを分子構造の面から研究する分子生物学が進歩した。生化学も分子生物学も要素を眺めて調べることで進展してきたが、2000年頃から合成生物学という分野と組み合わさることで要素から生命を創る、という視点が生まれてきた。
特に日本では、2000年代半ばに「『細胞を創る』研究会」という研究者のコミュニティーが生まれたことで、生命を創る研究が盛んになった。海外で盛り上がり始めたのは2010年代半ばからで、藤原准教授は「この分野で日本は10年ほど先を進んできた」と話す。
■分子構造が入れ替わった「鏡像生命」とは
さらに、人工生命の研究は、分子の構造が左右で入れ替わった「鏡像生命」の研究へとつながっていく
私たち人間を含む地球上の生命の大半は、DNAが「右巻き」のらせん構造になっている。これは、右巻きの構造を形成する成分のみで構成されているからだ。しかし、極めて少数ではあるが、「左巻き」の構造を持つ成分も存在する。これを使って、左巻きのDNAの生命(鏡像生命)を創ろうとする研究が進んでいるのだ。
なぜ、そんなことを? 実は、さまざまな社会課題の解決に役立つ可能性が、鏡像生命には期待されている。
「メリットとして挙げられるものの一つが創薬の分野です。私たちの体は薬の成分(右巻き)が患部に届く前に分解して消化してしまうのですが、もし成分が左巻きに反転していたら消化できなくなる。体内で分解されにくく、少量でも患部に届いてよく効く薬が作れるかもしれないと期待されています」
創薬だけでなく、建築材にも革命を起こすかもしれない、と藤原准教授は言う。
「鏡像生命の木をつくることで、腐りにくい木材ができるかもしれないと言われています。木が腐るのはバクテリアが発生して増殖し、木を分解してしまうためですが、鏡像生命の木であればバクテリアが分解できず腐らない可能性があります」
そんな人類の常識を覆す可能性を秘めた鏡像生命の研究について、一般の人々にも広く知ってほしいと、藤原准教授は発信にも熱心に取り組んでいる。2025年8月には、SF作家らと協力して、鏡像生命をテーマに未来の可能性を探るSF小説「鏡の国の生き物をつくる SFで踏み出す鏡像生命学の世界」を出版した。
一方で、人工生命研究の危うさを懸念する声があるのも事実だ。その一つが、人間の免疫で駆除できない「殺人バクテリア」ができてしまうリスク。たとえばペストは、ペスト菌が人間の細胞に潜り込んで免疫系が働かない物質を出して増殖したことが感染拡大の要因の一つだった。
万一、外部に漏れた鏡像バクテリアが人間の免疫システムに認識されず、排除の仕組みを持たないと、ペスト大流行のような事態を引き起こすかもしれない――。
こうした懸念に対し、藤原准教授はリスク回避の重要性を強調した上で、冷静な視点を持ち続けるべきだと訴える。
「そもそも、分子構造の異なる鏡像バクテリアが、自然界のバクテリアのように人間の皮膚を『食べやすい材料』と見なすのか。その点をしっかりと見極めるべきです。たとえるなら、草原にヤギを連れていくと草を喜んで食べますが、人間は見向きもしないでしょう。それと同じことが起きるかもしれない。『危険そうだからやめる』のではなく、本当に危険なのかをつくる前に明らかにしてから判断すべきではないか、というのが我々の考えです」
■つらかった日々を支えたもの
藤原准教授が人工生命の研究を始めたのは、2009年にさかのぼる。
修士課程で最初に所属した研究室のテーマは「生命の起源」だった。博士課程ではたんぱく質の形成過程を研究。その後、修士課程で抱いた疑問について、博士課程で学んだことをもとに研究しようと思い立つ。
「30億年前、40億年前には戻れないから、地球の生命の起源はつくれない。でも、いま存在している生命だったら創り出せるのではないか」
そう考え、ポスドク(博士研究員)のときに人工生命の研究を始めた。「簡単そうだし絶対にやらなければ」という確信めいた思いがあったそうだ。
細胞をすりつぶした細胞抽出液にゲノムDNAを入れれば、材料と設計図がある状態を創り出せる。そうなれば生命が自発的に組み上がると考えたが、実際にやってみると、さまざまな障壁が立ちはだかった。
海外からも研究成果が報告される中、知見を積み重ねて、課題を一つひとつクリアしていく日々が続いた。
「人工生命を創るという大きな目標に向かって走り始めてみたら、最初はとてもつらくて……。途中で前を走る人を追い抜いたり、『早く走れるようになったな』と感覚をつかんだり。コツコツとやっているうちに、何かとんでもないものを見つけてしまった。それが、いまの状態です」
趣味のランニングにたとえて、藤原准教授はこう続ける。
「いま、学生たちが出してくる研究データは『これは世界が変わるね』という衝撃的なものばかり。ゾクゾクする瞬間が日々訪れ、ランニングでいえば、まだコースの中盤を走っているのに『いくらでも行ける』とハイになっているような感じですね」
地道な研究を続ける支えになっているものの一つが、慶應義塾ならではの研究環境だ。国公立の大学・研究機関と比べ、公的な財政状況に影響を受けにくい私学の強みに加えて、慶應独自の「仲間意識」があると語る。
「たとえば、本の執筆を含め、鏡像生命の研究においては、卒業生が出資してくれる基金に支えてもらいました。『慶應の名声を上げてこい』という心意気で出資してくれるので、こちらも思い切ったことをやりやすい。応援し合う組織文化があります」
■「生命」の認識は変わるのか
人工生命の研究は日進月歩だ。藤原准教授によると、人工生命は今後10年以内に、鏡像生命は2050年には実現すると言われている。
決して遠くない未来、「生命」に対する私たちの見方はどのように変わっていくのだろうか。
藤原准教授は「生き物の中に『モノらしさ』を見いだすようになるのでは?」と話す。
「これまで生命は、中がどうなっているかわからない『ブラックボックス』のような扱いづらい存在でした。しかし、人工生命の研究が進めば、将来的には、作り方がわかっている『モノ』のような存在だと考える人と、それに対してあらがう人とで意見が分かれるのではないでしょうか。生命と『モノ』の違いについては、これまでは哲学で突き詰めて考えていましたが、これからは哲学ではなく、実感できるようになるのでは、と思います」
構成:朝日新聞GLOBE+編集長 玉川透
取材・文:澤木香織
写真:品田裕美