慶應義塾

美術作品の声を聴く

公開日:2026.05.13

登場者プロフィール

  • 荒木 文果

    荒木 文果

 フィレンツェのウフィッツィ美術館には、豪華な椅子に座る女性像を描いた7点の板絵が並んでいる。この前で、長く足を止める来館者は多くない。近くの部屋には、ルネサンスという時代を代表する《ラ・プリマヴェーラ(春)》や《ヴィーナスの誕生》(いずれもサンドロ・ボッティチェッリ)があり、その先には、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの作品や美しい色彩をほこるヴェネツィア派の絵画の数々、さらには初期バロックの巨匠カラヴァッジョの作品が待ち構えているのだから無理もない。しかし、よくよく眺めてみるならば、似たような女性像が並ぶこの板絵群が実に多くのことを語り出す。そして我々を15世紀フィレンツェの社会へ、さらには奥深い西洋美術史の世界へと導いてくれるのである。

【図1】ピエロ・デル・ポッライオーロとサンドロ・ボッティチェッリ《7つの美徳の擬人像》フィレンツェ、ウフィッツィ美術館 ※左から《剛毅》《節制》《信仰》《慈愛》《希望》《正義》《賢明》

 この7点の板絵は、2名の画家によって描かれたものである。ただし単純な分業ではない。6点をひとりが手がけ、1点のみを別の画家が制作した。どの1枚が異なる手によるものだろうか。線の運びや陰影のつけ方といった細部の観察に加え、時には史料の証言と照合しながら作者帰属を特定する方法は「様式論」と呼ばれ、西洋美術史の基礎をなす重要な研究手法である。現存する作品数が限られている場合には難しいかもしれないが、今後AIなどの科学技術の活用も期待される領域である。さて、答えは左端の作品であり、この女性像の作者は、初期ルネサンス期の代表画家ボッティチェッリである。

 では、これらの女性像はいったい誰なのだろうか。それを知るためには、西洋において、抽象的概念を人物像で表すという伝統があることを理解しておく必要がある。これらの板絵に描かれた女性たちは、キリスト教における7つの美徳、すなわち信仰・希望・慈愛(対神徳)と正義・賢明・剛毅・節制(枢要徳)の擬人像なのである。擬人像を描く際には、一定の約束事があり、たとえばボッティチェッリが描いた女性像は「剛毅」の擬人像で、勇気や力、持久力を象徴し、鎧や武具をまとった女性として表されることが多い。このように図像が何を意味するかを読み解く学問を「図像学」、さらにその意味を歴史的文脈の中で解釈する学問を「図像解釈学」と呼ぶ。過去の美術作品を扱いながら、現代でもさまざまな解釈が提出される魅力的な領域である。

 ところで、なぜボッティチェッリが1点だけ担当したのだろうか。7つの美徳の擬人像を描いた板絵群は、もともとフィレンツェの政治の中心地であるシニョリーア広場に面した商業裁判所(メルカンツィーア)に設置するため、当時人気を誇っていた芸術家ピエロ・デル・ポッライオーロに依頼されたものであった。折しもボッティチェッリは、フィレンツェのオニサンティ聖堂に近いヌオーヴァ通り(現ポルチェラーナ通り)の自宅で小さな工房を開いたばかり。1470年5月17日までに、ピエロは《慈愛》《節制》《信仰》を完成させたが、その後の進捗状況が芳しくないと判断され、まだ駆け出しの画家であった若きボッティチェッリに残り4体のうち、2体の擬人像を制作するよう依頼がなされたのである。それを受けて、画家は、同年6月18日から8月18日の間に《剛毅》を完成させた。若かりしボッティチェッリにとって、この仕事は、自分の名を世に知ってもらうための絶好の機会だったと位置づけられる。

 果たして、同一の構図と形式という制約のもとでの競作は、彼の才能を際立たせる結果となった。ボッティチェッリが描く人物像は、堂々とした量感を備え、精緻な甲冑の描写は、豪華かつ繊細で、金細工師として修業を始めた画家の面目躍如といえる出来栄えである。さらに、画中の消失点を低く設定することで空間を仰視的に構成し、人物が前方へ迫り出すような効果を生み出している点も注目される。この《剛毅》が当時どのように評価されたかを直接伝える史料は残っていない。しかし、その後にポッライオーロが手がけた擬人像(《希望》《正義》《賢明》 ※【図1】の右から3人)では、人物像のスケールが明らかに大きく描かれていることが確認される。この変化は、先行作例よりも大きく見えるように工夫されたボッティチェッリの人物像が同時代人に強い印象を与え、大変な賞賛を得たことを物語っていると言えよう。このように、一見すると目立たない作品群も、ただしく観察し、様式・図像・歴史的背景といった複数の視点から読み解くことで、新たな意味が立ち現れる。これが美術史研究の醍醐味である。

 現代において、AIの発展や情報環境の高度化により、視覚イメージはかつてない速度と規模で生産・流通している。そのような時代にあって、イメージを受動的に受け取るのではなく、それがいかに作られ、何を意味し、どのような文脈で機能しているのかを批判的に読み解く力は、ますます重要となるだろう。細部を正確に観察し、それを広い歴史的文脈へと繋いでいく美術史学の営みは、過去を理解するためだけでなく、複雑化する現代社会を読み解くための確かな視座をも与えてくれるだろう。

荒木文果「『共作』と『競作』のはざまでー15世紀のシスティーナ礼拝堂壁画装飾事業におけるピエトロ・ペルジーノとサンドロ・ボッティチェッリ」デアルテ、35号(2019年)、89 – 116頁