慶應義塾

名は体を表す?|政策・メディア研究科委員長補佐 鶴岡 路人

公開日:2026.06.23

今年5月31日の東京六大学野球の早慶戦は、32年ぶりの天覧試合になった。早慶戦といえば、「慶應では慶早戦と呼ぶ」という俗説が世間ではいまだに聞かれる。それに対して慶應関係者は、「慶應はそんな細かいことを気にしない」と、慶應が大人の余裕で早稲田に譲ってあげたような言い方をするので、早稲田関係者はあまりよい顔をしない。などと煽っていると、慶應はやっぱり本当は「慶早戦と呼びたいのでは」と思われるが、おそらく違う。などという議論を、何十年もやっている。

それでも、やはり名称は重要だ。しかし、この根本からして、慶應は何ともいい加減なのである。私自身、学生としても教員としても、それなりの慶應経験を重ねているが、いまだに「慶応大学」というか「慶應義塾大学」というかで迷う。学会報告や格式ばった講演会などの際は、「慶應義塾大学の鶴岡です」と自己紹介することを心掛けているが、何となくその場の雰囲気や気分次第で「義塾」を省略することも少なくない。新聞、雑誌、テレビなどに出る際は、基本的に先方のスタイルを受け入れることにしている。

慶応と慶應義塾であれば、後者が正式であることに疑問の余地はない。とはいえ、前者でも、そう問題はない。他方で、青山学院大学の人が青山大学と省略するのは聞いたことがない。

大学の略称といえば、すぐに思いつくのは、やはり東大や京大だろうか。「〇大」という方式を慶應にあてはめれば、慶大になる。実際、新聞記事や見出しなど、文字数の制約が厳しい場合、「慶大教授」などと表記されることはある。しかし、東大や京大と異なり、話し言葉で慶大ということはほぼない。その場合は慶応だ。文字でも音でも慶大と同じ長さなので不便はない。

これが英語になるとどうだろうか。Keio Gijuku Universityという用例は、いくら探してもほとんど見つからない。かなり初期の段階からKeio Universityなのである。青山学院大学や関西学院大学の場合は、英語名称にGakuinが必ず入るのと大違いだ。Gijukuはどこに行ってしまったのか。

この理由について決定的な説明に接したことはまだないが、いずれにしても、慶應義塾では「塾」という言葉が本当によく使われているにもかかわらず、英語になるとあまり気にしないいい加減さ、いや柔軟さは、何とも興味深い。

学生のことは塾生と呼ぶし、卒業生は塾員、学内という意味で塾内といったりする。全塾は学内すべてという意味で使われる。塾という言葉の多用は、私は結構嫌いではないのだが、これが英語だとまったく使われないのは、何だか寂しい。慶應義塾のトップは塾長と呼ばれ、これは、日本語ではなかなか独特な役職名だ。しかし英語だとPresidentなので、何だか普通である。

まったく関係ないが、宮内庁式部官長の英語名称はGrand Master of the Ceremoniesである。日本語以上にインパクトがある。

それはそうと、英語ではGijukuが消えたおかげで、慶應義塾は海外では発音しやすく覚えやすい大学名になった。Keio Gijuku Universityだったら、正しく発音してくれる外国人はほとんどいなかったはずだ。

名は体を表す、という。慶應義塾大学、慶応大学、慶応、Keio Universityという変幻自在な姿は、やはり福澤諭吉のプラグマティズムの精神のたまものなのかもしれない。そういえば、もう9年以上前になるが、着任時、辞令交付という儀式はなかった。不要といえば不要だ。何になるかは分かったうえで着任するからだ。