慶應義塾

近代史の中の台湾出身の塾員たち

公開日:2026.05.20

執筆者プロフィール

  • 𠮷田 悠樹彦(よしだ ゆきひこ)

    研究所・センター 外国語教育研究センター講師政策・メディア研究科 卒業環境情報学部 卒業

    2025年台湾フェローシップ、国立台北藝術大学訪問学者・1997環、99政メ修、2005政メ博

    𠮷田 悠樹彦(よしだ ゆきひこ)

    研究所・センター 外国語教育研究センター講師政策・メディア研究科 卒業環境情報学部 卒業

    2025年台湾フェローシップ、国立台北藝術大学訪問学者・1997環、99政メ修、2005政メ博

画像:「陳啟川紀念館」の展示より、学生時代の仲間たちとの交流を示す寄せ書きやペナント(筆者撮影)


今日、慶應義塾大学も福澤諭吉も台湾では非常によく知られている。その関係を遡れば、日本統治時代の台湾の代表的な新聞の「台湾日日新報」には明治33(1900)年4月、福澤諭吉の論考として「男女交際論」や「脩身要領」などが紹介されている。

台湾日日新報明治34(1901)年5月11日付より

また、『三田評論』の前身にあたる『慶應義塾学報』が明治31年に創刊されると、次第に台湾についての寄稿など、台湾の話題が少しずつ登場するようになる。明治34年に開場した台湾最初の図書館の臺灣文庫では『慶應義塾学報』を利用することができた。この年に福澤諭吉が他界し、慶應義塾同窓會の名で弔辞が「台湾日日新報」に掲載される。さらに同年5月11日の同紙紙面に慶應義塾同窓會の記事が登場する。文中の安場男(爵)とは塾員の安場末喜の事である。後藤とは親戚にあたり、台湾総督府製紙事業取調事務等を務め製糖会社などで活躍した。

これ以降、慶應義塾関連の記事が同紙に頻繁に登場するようになる。他の台湾の新聞と比べ、このメディアと慶應義塾になんらかの関係があったと推察される。

この時代の同窓會は毎年会場を変えながら行われていたようで、明治36年9月23日付の紙面には安場や鹿子木小五郎や藤原銀次郎が来たと記されている。慶應義塾には台湾から後述する高雄陳家の陳中和の弟や子どもが学んだことも記録されていた。

やがて北部の台北だけではなく南部の台南でも同窓会は行われるようになり、大正4(1915)年になると紙面には「三田會」の名前が出てくる。大正13年7月には当時の塾長の林毅陸一行が台湾へやってきて講演をしたという記録が伝わっている。

塾長の来台は小泉信三が昭和15(1940)年に、台湾へやってきて台湾各地の三田会に出席したことも記録が残っており、それ以外にも慶應義塾の体育会が台湾で活躍したという記録として昭和2年に庭球部と野球部が台湾へやってきて人気となったという記録も伝わる。台湾製糖でも活躍した朝吹常吉はテニスについて紙面で語っている。妻の朝吹磯子はテニスプレイヤー・歌人で台湾を詠んだ作品も残している。2人と縁戚関係になる政治家の石井光次郎も若き日に台湾総督府で働き、北原白秋らと交流があったのは奇縁といえる。

台湾人で活躍した塾員も少なくない。台湾にも当時の貴重な資料が残っている。慶應に在学する台湾人学生の会、台湾慶應会も存在し、昭和10年代前半には、そこには陳啓川や林永修がいた。

陳啓川(明治32~平成5年)は台湾五大家族の高雄陳家出身の1人である。義塾在学中は体育会競走部で活躍し、やがて高雄に戻り結婚し、後に香港大学でも学んだ。陳は台湾人の芸術家や台湾新文化運動の指導者たちとも交流が深く戦後は高雄市長なども務めた。

高雄の陳啟川紀念館には塾在学時代から卒業後の交流まで慶應義塾大学関係の資料が多く展示されている。

具体的に台湾時代の慶應の資料や記録を残している塾員もいる。詩人の林永修(大正3年─昭和19年)である。筆名は林修二。映画「日曜日の散歩者」(黄亜歴監督・2015年)の主人公として知られ、詩人・英文学者の西脇順三郎に学んだ。本年秋には東京都現代美術館で展覧会「共時的星叢─時を共にした星たち 越境する芸術のまなざし」(9月5日~12月13日)が開かれ、その生涯を知ることができる。

慶應在学中の作品はしばらく所在がわからなくなっていたが、筆者が再び見つけ出し、『三田文學』(令和2年春号)にまとめて、掲載された(「林永修と林妙子-台灣と西脇順三郎」)。

林は台南の麻豆地区に臺灣三林として知られた麻豆林家に生まれた。彼は昭和9(1934)年に慶應義塾大学予科1期生として日吉キャンパスに学んだ。昭和5年に台湾慶應會(台南、森永喫茶店)に出席し、その体験を作品や短文に残している。昭和7年には三田華島會(大学の台湾留学生の会)に出席し、昭和8年に高雄で行われた第6回台湾慶應會の記事には、陳の名前が掲載されている(「台湾日日新報」昭和8年8月13日付)。

惜しまれる最後を迎えた塾員もいた。陳炘(明治26年─昭和22年)は慶應義塾大学理財科を卒業後、米国コロンビア大学に学び、台湾で金融業を中心に大きな役割を果たした。大正8年義塾入学と思われ、大正10年の在籍も確認できる。

彼は台湾人の権利や文化を担う側に立ち、議会設置運動、雑誌「台湾青年」の編集など活躍を重ね、台湾人のための信託会社をつくるなど台湾人を経済的に担う側面もあった。台湾新文化運動のリーダーである林献堂や蔡培火はその能力を高く評価した。

しかし、陳は昭和22年に勃発した白色テロの二・二八事件に巻き込まれた。能力が高く本島人の経済や文化の中核にいたことから警戒されていたことがその一因と見られる。民主化が進む中で彼について語られるようになってきたが、行方不明のまま資産も戻ってこず、主だった資料も失われ、子孫もバラバラになってしまい今日に至っている。

一連の塾員たちの足取りは今日の台湾と日本の交流に連なるところがある。その姿を関係史として政治経済・文化と多角的にみつめていくことが大事だと考えている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。