執筆者プロフィール
住吉 朋彦(すみよし ともひこ)
研究所・センター 附属研究所斯道文庫教授住吉 朋彦(すみよし ともひこ)
研究所・センター 附属研究所斯道文庫教授
令和8年(2026)3月26日、義塾図書館に収蔵する一巻の典籍を国宝に指定すべしとの答申が、文化庁の諮問する文化審議会から出され、年内に国宝となることが決まった。その典籍とは「論語疏(ろんごそ)巻第六」と呼ばれる作品で、10年ほど前に図書館で、古書店から購入して頂いたものである。
慶應義塾の所有品としては、戦前以来の指定である「秋草文壺」(日吉で出土した平安時代の陶器)に次ぐ2例目で、文化財保護法施行後の新たな指定としては、初めてのこととなる。
これは塾に関わる者として率直に喜んでも、いや、大喜びして祝典を開いてもよいくらいの慶事だと思う。
国宝にもジャンルがあるけれども、今回の指定は「書跡・典籍」の部門であり、文化庁の説明に拠ると、どちらかと言えば典籍としての評価であった。典籍とは、美術品や、古文書(手紙や書類)、歴史資料とも異なる、古典的な書籍、本のことである。「論語疏巻第六」は写本であるから、書跡(セキの字が異なる、筆跡)にも当たるが、芸術的鑑賞に堪える書という趣旨の指定では、なさそうである。
本というのは、多くの人が地域や年代を超えて読み、利用し、味わい、楽しむことのできる書物という意味である。その中でも、風雪に耐えて読み継がれた選り抜きの本が「典籍」で、その分野の国宝という事実が胸に迫るところであった。
論語疏は、数ある論語の注釈書の1つで、「論語義疏(ぎそ)」とも呼ばれる。論語は、紀元前、春秋時代の孔子の言行を、門弟の記録した古典であるが、漢魏の時代には、すでにそのまま読むことが難しくなり、論語集解(しっかい)という注釈書が作られた。しかし六朝時代には、さらにその理解も難しくなったので、梁の皇侃(おうがん)という学者が、論語と論語集解の解釈を論じ、論語(義)疏十巻をまとめた。今回指定の本は、そのうちの約一巻分(巻六、但し他の本では巻五に当たる部分)に当たる。
東洋でも西洋でも、人類には古典という資産があり、古典には注釈が付き物である。またそれらは、実際には写本や刊本として存在するが、大抵の場合、成立当初の原本ではなく、何らかの変形がある。そこで刊写本の形状や本文を批判し、その品質や完全性、変形の過程を問う基礎的な研究分野があって、書誌学、文献学と呼ばれている。今回指定の本は、書誌学、文献学的に見て、極めて高いレベルの資料なのである。
この「論語疏巻第六」は、中国の南北朝末から隋時代、6世紀頃の写本と見られる。日本でいうと飛鳥時代に当たり、正倉院の本などより古い。世界でも、断片的な出土品を除くと、これに匹敵する紙の写本資料は、敦煌本くらいしかない。また著者の皇侃は6世紀の人で、著者自身の時代にも迫る。論語(義)疏には、別に敦煌本として唐時代の写本が一巻(巻二)あり、十巻の完本は、日本の室町時代写本まで降るが、それらを凌ぐことは言うまでもない。
しかもこの本は、議論の対象となる論語および論語集解の文章も全載する。つまりその原典についても最古級の写本であり、紙の伝世品としては最古である(河北省定州と北朝鮮の平壌で出土した漢代の竹簡、木簡本がかつて存在したとの証跡があるが、現在は損壊もしくは喪失してしまい確認できない。近年の出土品として江西省南昌市海昏侯漢墓出土の竹簡があり、こちらは比較的まとまっている)。
一巻だけで国宝かと驚くことなかれ、東洋文献学最上流の評価では、6世紀頃の写本がほぼ一巻あるとは奇跡的ということになる。こうした資料の完全性は、人から人に伝えられた伝世品の特色で、今回の「論語疏巻第六」も、冒頭の半紙分を欠くだけの、準完全例と言える。
さて、さらなる疑問として、中国古典の中国写本がどうして日本の国宝なのか、と不審に思われるかも知れない。そこは文化財指定の考え方になるが、文化財保護法の第1条に「世界文化の進歩に貢献することを目的」の一とし、第2条に「わが国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの」を指定するとの規程がある。つまり、早くから日本で受容された中国の古典作品は、日本文化に影響を与えつつ、世界文化の研究理解に欠かせない資料であり、日本国指定の文化財に当たるのであろう。
と言うのも、この「論語疏巻第六」は、江戸時代まで京の公家、壬生家に伝来したとの記録がある。壬生家といえば、平安時代から宮廷の御庫を管理してきた実務官僚の家である。そして、この写本には「藤」と読める縫印(つぎていん)(原紙の継ぎ目に押して離散を防ぐ判子)が見える。これは平安時代前期の関白、藤原忠平の印記に酷似し、その前後の摂関家の印と考えられる。他に東京国立博物館所蔵の重要文化財、唐写本史記巻二十九に見え、当時の国家レベルの蔵印である。またこの「藤」印は、さらに早い時期の古印を避けて捺されており、全体には平安時代初期以前の輸入と見られる。この典籍が長く日本文化に影響を与えたことは確実と言え、正に文化財指定の要件に相応しい。
この本の年代鑑定については、早稲田大学図書館の協力があって初めて成論を得るに至ったものであり、あらためて感謝を申し上げたい。その経緯について、令和7(2025)年に本作品が、まず重要文化財に指定された際、「MediaNet」第32号に詳しく紹介させて頂いた(『論語疏』巻六文化財指定の顚末)。
最後に、塾内外の多くの方々が、指定に至る過程を支えて下さったことを記し、感謝を致したい。特に資料の購入後「慶應義塾大学論語疏研究会」が組織され(〔附記〕参照)、様々な角度から研討が加えられたことは重要で、2020年10月の図書館主催「古代中世 日本人の読書」展(丸善・丸の内本店[図1])での公開を経て、最終的に『慶應義塾図書館蔵論語疏巻六 慶應義塾大学附属研究所斯道文庫蔵論語義疏 影印と解題研究』(2021、勉誠出版[図2])がまとめられ、中国における翻訳(同会と北京大学東亜古典研究会の共編)『論語義疏二種』(2024、上海古籍出版社[図3])の出版と検証にも繋がったことは、評価の礎となった。
なおこの本の画像は「慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション」 からも公開されている。
また資料の購入と管理、指定プロセスへの対応は、慶應義塾大学三田メディアセンター選書担当、スペシャルコレクション担当部門(旧貴重書室)の尽力なしに語れないし、購入推薦に賛同して下さった大学教員諸賢、購入を決めて下さった当時のメディアセンターおよび塾幹部と、幹部に直接購入を掛け合って下さった佐藤道生現名誉教授には、感謝のことばもない。文学研究科のご出身で、文化審議会文化財分科会第一専門調査会委員を務められる西岡芳文氏も、重要文化財から国宝へと指定を支持して下さったに違いない。
なお報道をご覧になった読者の中には、何か古書店の店先に無防備に積まれていたのを引っ張り出して来た、と想像された方があったかも知れない。しかし事実は、神保町随一の古書店と謳われる老舗の堅牢なビルの執務室で、社長自ら机上に繰り延べ、お示し下さったことが、このたびの僥倖に繋がった。
つまりこの本を、一筋に誠実なる取扱いをもって塾にお納め頂いた、「神保町随一の古書店」を経営される社中の大先輩が、本件最大の恩人ということになる。しかしそこは舞台裏のこと、各位のAI検索にお任せすることとしたい。
〔附記〕慶應義塾大学論語疏研究会メンバー(敬称略)は以下の通り。一戸渉、小倉慈司(委嘱)、倉持隆(幹事)、合山林太郎、齋藤慎一郎、佐々木孝浩、佐藤道生(総裁)、住吉朋彦(幹事)、髙橋智、高橋悠介、種村和史、中島圭一、藤本誠、堀川貴司、矢島明希子
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。