執筆者プロフィール
齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)
横浜初等部教諭齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)
横浜初等部教諭
ある日、中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)は、たまたま井上馨(かおる)と同じ汽車に乗り合わせた。このとき井上は、破綻の危機に瀕していた三井家の改革の一切を委託されており、中上川に向かって、「若し他に一人君の如き人物を求むる事を得ば、三井家改革の事を挙げて一任すべきに」とこぼした。これに対し中上川は、招聘に応じることを約したという(武藤山治「中上川彦次郎氏伝記」)。
差詰め足下にこそ可有之
三井家は、維新後も明治政府と密接な関係を築き、両替店が銀行に転じても日本一の金融業として日本経済の重要な地位を占めていた。ところが、明治24年にそれまでの好景気の反動で恐慌が起きると、薩長閥族への貸付などが回収できない、不良債権化しているという三井の窮状を暴露する新聞記事が報じられた。これに慌てた市民が預金の引き出しに殺到したことから、4月には三井銀行京都支店で取り付け騒ぎが起こるに至った。緊急事態に三井11家の当主が顔を突き合わせ相談した結果、改革を井上馨に一任することとなったのである。井上は、6月ごろに三井家の人々と後見役である澁澤栄一、三井物産を率いる益田孝、三井銀行の重役たちを集め、改革の実行に中上川を採用したいことを諮(はか)り、無論反対はなく、中上川の採用が決定した。
中上川は、福澤への相談を忘れてはいなかった。中上川に先んじて三井銀行に入行し、不良債権の調査に当たっていた高橋義雄からおおよそ三井の事情を聴いていた福澤は、6月24日付の返信で、「実際におゐて決して困難とは不相見」と言い、三井の改革の「極意は誠実深切に在るのみ」と診断している。そして、「差詰め足下にこそ可有之」と中上川が適任であることを伝え、山陽鉄道の退社と三井への入社を強く勧めたのである(書簡1630)。
中上川は、三井銀行の理事(のち副長)、三井組の理事に就任し、三井銀行と三井各社から旧態依然とした御用商人の商売を廃し、真面目に正々堂々とした態度をもって正義によって商売することを徹底した。中上川はこれを「実業界の武士道」(中上川のスピーチ演題)と呼んだが、それは近代日本の誕生期に資本主義への道を拓くものであった。
大伽藍の掃除
中上川が三井在任中に取り組んだ、4つの大きな功績を紹介したい。
第1は、経営悪化の原因を作った不良債権の整理である。三井銀行は、回収の困難な巨額の債権をいくつも抱えていた。その1つが、東本願寺に対する貸付金100万円(現代に換算すると100億円規模)であった。中上川は、本願寺に対し、1年以内に債務返済のない場合は、一大庭園(現在、国の名勝指定)を擁する枳殻(きこく)邸を差し押さえると通達した。これに驚いた僧侶たちは、「織田信長の再来」「仏敵来たれり」と全国を遊説し、信者に奉納寄付を求めた。意外にも、寄付金は巨額にのぼり、借金を返済してなお、本堂の修理も成せた。後年、東本願寺を訪ねた中上川は、「仏敵中上川の木像を本堂に安置してもよろしかろう」と案内の僧に言ったという。2つ目に、前橋に本拠を置く薩摩閥の第三十三銀行の破綻に伴う抵当物件の処分がある。抵当となっていた土地物件の登記に当たり、土地所有者から登記取り消しを迫る訴えがあり、事態を憂慮した群馬県知事や警察部長が仲介に乗り出したが、中上川は頑としてこれに応じなかった。また、抵当となっていた前橋紡績株式会社、大嶹製糸工場は、三井銀行が引き取った。3つ目は、長州閥の桂太郎中将(のちに総理大臣)の弟、次郎の借金の抵当に太郎の邸宅が入っていた案件である。中上川は、ここでも閥族との因習を断ち切り、桂太郎に返済を督促した。
第2に、このような強硬策を進める背景として、中上川には、政府の恩恵に与ることを期待せず、自主独立経営を目指す覚悟があった。当時、三井銀行の各支店は各府県の公金を取り扱う特権を有していたが、公金取扱目的で開設された支店・出張所を次々と閉店して、その特権を返還した。やると決めたら断固やる、世間や政府の不評など意に介さず、「超然たるもの」(中上川の娘婿、のちに三井銀行を率いる池田成彬の評)、それが中上川であった。
第3に、負の遺産の整理を超えて、三井を積極経営に導いた。抵当流れで手に入れた株式のうち、事業に見込みのないもの、有望であっても三井銀行が大株主として実権を握れないものは、躊躇なく売却した。一方、将来見込みのある産業については、株式を保持し、人材を送り込んで直接経営に当たった。その主なものは次のとおりである。
鐘ヶ淵紡績会社(のちの鐘紡)は、中上川が入行したとき、生産量も乏しく苦境にあった。中上川は自ら社長に就き、実際の経営を妹婿の朝吹英二に当たらせ、兵庫に第2工場を建設し、当時の日本経済では想定しがたい生産量と高品質の糸を生産する紡績機械を導入する積極策に打って出た。朝吹は、三井銀行から東京工場の主任に和田豊治(とよじ)を、兵庫工場には武藤山治を起用した。この2人は、やがて日本の紡績業を支える存在となった。製糸工場としては、ほかに前述の前橋、大嶹、政府から払い下げられた新町絹糸紡績所、富岡製糸所(旧製糸場)、さらに富岡を傘下に入れたことを受けて新設された三重と名古屋の製糸所があった。
王子製紙は、澁澤栄一が洋紙の需要を見込んで肝煎りで設立した会社である。中上川は、増資の引き受けとともに、ここに藤山雷太(らいた)(のち大日本製糖社長、中上川の妻勝の妹と結婚)を専務として送り込んだ。藤山は、中上川から、「三井の製紙会社たらしむるのだ」ということを念頭から離してはならぬ、という密命を帯び、使命を果たし、澁澤一派を会社から追い出す形で王子製紙を三井のものにした。
田中久重という人物が個人で東京芝浦に電機工場を設け、三井は田中の事業に援助していたが、これも抵当流れとなり、周囲の反対をよそに、中上川は将来必ず見込みのある産業であるとして経営に当たった。これが芝浦製作所、のちの東芝である。
中上川は、三井各社(銀行、物産、呉服店、鉱山)を統括する三井元方(もとかた)・三井家同族会を設け、のちの財閥に至る組織体制を整えたが、管轄する工場の拡大に伴い、その元方のもとに工業部を設置し、専務理事に朝吹を起用して、三井の工業化を推し進めた。
さらに明治32年には、夕張炭鉱などを持つ北海道炭礦(たんこう)鉄道の株を秘密裏に買占め、発行株数の6分の1強を握ることになる。同社の株は、中上川死後も増え続け、大正期になって完全に三井の支配下に置かれ、三井に多大な利益をもたらすことになる。
第4に、これらの改革を遂行するために、慶應義塾出身者、時事新報の記者上がりの若者を採用し要職に就けた。今でこそ新卒採用は、ごく当たり前のことであるが、中上川がその嚆矢であった。これまで挙げた人物以外にも、波多野承五郎(のち三井銀行理事)、村上定(のち共同火災保険社長)、平賀敏(のち桜セメント社長)、日比翁助(ひびおうすけ)(のち三越呉服店専務)、鈴木梅四郎(のち王子製紙専務)、藤原銀次郎(のち王子製紙社長)、小林一三(阪急電鉄社長)らがいる。中上川は、こうした若手に仕事を徹底して任せ、部下の報告にも可否は言わず、「そうでしたか」と聞き置くだけ、重大案件にも大概は即決した。一方、任せておきながら荒馬たちを見事な手綱さばきで統制していた。
何もかも抜け目がないが
三井という「大伽藍の掃除」(福澤書簡1630)に伴う心身の過労からか、毎晩ビールの大瓶に日本酒を入れて寝室に持ち込み朝までにカラにしていたほどの酒豪であったためか、中上川は、明治32年11月ごろから腎臓炎を病み、静養を余儀なくされた。かつて「至極痩せ型な少年」であった中上川は、料理人を雇い入れるほどの美食家のうえ、汗かきのため運動を好まず、5尺8寸(176cm)、28貫目(105kg)の巨漢となっていた。これも腎臓に負担となったに違いない。
中上川の闘病生活と時を同じくして、反中上川派が勢いを増してきた。彼らに追い風となったのは、井上馨が長州閥に対しても構わず債権回収を進める中上川の独断専行に不満を持ち機嫌を損じていたことである。福澤は中上川に対し、「唯一つの気遣は澁澤益田の輩がいやに思ひはせぬかと少々関心なれども、是れは井上の方寸を以て如何様にも取扱出来可申」(書簡1630)と書き送っていたが、その心配事は、井上をも敵に回すことで、悪い方に的中することになった。
日清戦争後の反動的な不景気が、中上川の積極経営に少なからぬ打撃を与えたうえに、『二六新報』が、三井家主人の素行への糾弾と、三井銀行の対応が非道であるという三井攻撃の記事を3カ月にわたって掲載した。この『二六新報』事件は、伊藤博文の周旋によって和解となるが、これに乗じた他紙が三井銀行預金者の動揺を報じたため、取り付け騒ぎとなり、中上川が日本銀行にも応援を請わざるを得なくなった。こうして三井銀行の経営に対する井上の干渉が強まり、これまで静観していた益田が中上川の方針に異を唱えるようになる。中上川の健康はいよいよ勝れず、福澤の逝去からわずか8カ月余りのちの明治34年10月7日に47年の短い生涯を終えた。今年は、福澤とともに中上川の没後125年に当たる。
中上川は、礼儀正しく言葉丁寧であった。女性をいたわり敬う態度や、派手な服を好んだのは、英国留学の影響によるもので、「大事に任じ得る英国風の紳士」(波多野の評)であった。中上川の書斎は整然としており、些細なことにも心を配り、人に親切で目下であっても「くん」「さん」を付けて名を呼ぶところは、叔父の福澤に似ていた。一方、福澤は中上川のことを「何もかも抜け目がないが、子どもの教育だけは理屈に合わぬことをする」と言い、子どもの教育には対照的なところがあった。二男の次郎吉は幼稚舎より厳重のようであるからと暁星学校に入学させた。また子どもの玩具が座敷に置いたままであると、それが昨日買ったものであっても、捨ててしまったという。
中上川亡きあとの三井は、益田が統率の任に当たった。中上川の進めた工業化は徐々に修正を加えられ、三井の工業化を担った工場と人材は三井を離れていった。中上川が登用した人材は、結果として三井を超え、日本の資本主義を先導していく。福澤の理想とした、「口に言ふのみにあらず、躬行実践、以て全社会の先導者」として実業界に先鞭をつけたのが中上川であり、福澤門下で育ち中上川の薫陶を受けて巣立った人材が、その後に続いたのである。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。